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2019/11/26 18:05
突然ですがTHISONEのBLOGを始めました。
商品のことなんかはインスタやTwitterでもある程度告知出来てしまうから
どう動かそうかなと思ってた時に身近なDJやラッパー以外のただの友達でも
あまりメディアに露出していない身近な気になる存在にインタビューをしたらおもしろいんじゃないかと思いつき、急遽第1弾です。
先日、全国流通としては初めてのアルバム”RESTART”をリリースした
CHIN-HURTZのインタビューを慣行しました。
まだ謎な部分も多いと思うのでラッパーとしてのキャリアスタート、沈んでいた時期からのリスタート、
これから先の事までを話してもらいました。
最初だからちょっと固くなりすぎてしまったかもしれませんが是非。
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THISONE(以下T) : まずは自己紹介をお願いします。
CHIN-HURTZ(以下C) : ラッパーのCHIN-HURTZです。
高校生の時にHIPHOPを聞き出して、20歳頃から自分でもやってみたいと思って
高校の友達のPIRAROCK、大学で出会ったSUGAR CRACK、
他にラッパー2人と合わせて5人でアイスラッガーとして活動をはじめたのが最初。
地元は千葉だけどライブをやり始めたのは都内で
初ライブは原島”ど真ん中”宙芳くんが下北沢WEDGEでやっていたイベント”マグマ”だったかな。
T : ”RESTART”を全国リリースするまでに10枚の自主制作アルバムをリリースしているけどまずはその経緯を教えてもらえるかな。
その枚数は他のラッパーと比べてもかなり異例だよね。
C : トラックメイカーが2人いたし、当時は自分でもビートを作っていたのでとにかくビートがたくさんあったんだよね。
それに合わせて自分もガツガツ書いていたから気づいたら出来ていたって感じだね。
自分以外のラッパーは1st以降もうやる気がなくほぼ参加しなくなったから
それからはずっとラップは一人でやってた。
2ndはビートもラップも一人でやって、他のアルバムのビートは3人で分担してという感じで。
FUNKARATT CORPを立ち上げてSUGAR CRACKの家にみんなの機材を持ち込んで
録音できる環境を整えていったんだよね。
1枚目はアイスラッガー、2-8枚目はソロ、9枚目は友人の死男(Ceeman)と作ったけど
周りに渡したり、一部の店舗で販売していただけで今よりも作り方もラフだったし、
ラッパーとしてまだ完成されていなかったって今は感じてる。
自信を持って今も聞いてもらいたいなって思うのはMETEORくんとしっかり絡むようになった後に作った10枚目の
自主アルバムである”海賊盤 - LOST CLASSICS - “からだね。
T : METEORくんとはどんなきっかけで知り合ったの?
C : 元々存在は知っていたしクラブでもよく見かけていたんだけど、
最初は近づきづらい存在だった。
けどたまたま自分がちょー酔っぱらってる時に勢いでアルバムを渡したんだよね。
その時は「おう、聞くよ!」くらいで終わったんだけど
それから毎回会う度に他のアルバムも渡してたら
「お前どんだけつくってんだよー」って気にしてくれて。
それから自分たちのスタジオにMETEORくんが遊びに来てくれるようになって、
FUNKARATT CORPでMETEORくんのアルバム”DIAMOND”も作る事になり、
おれたちも喜んで協力しますって感じだったかな。
METEORくんがスタジオに色んな人を連れてきてくれたのをきっかけにトラックメイカー達も
自分以外のラッパーにビートを提供し始めてガラッと環境が変わっていった時期。
鬼さんのアルバムにSUGAR CRACKのトラックが使われた時はかなり感動ものだったな。
T : “DIAMOND” には1曲FEATで参加してるよね。
C : ”大冒険”という曲に参加したんだけど、
「何言ってるかわからないしこれじゃぜんぜんだめ、全部書き直してきて!」
って何度も書き直しをさせられて、、かなり落ち込んだけどそこからラッパーとしての意識が変わっていった。
それまでは自分でも何の話をしているのかわからないくらいマニアックなラップをしていたから
伝えること伝わりやすく歌う事の重要さを初めて指摘され今までは自己満足だったのかもと気づかされた。
あと、METEORくんのツアーにバックDJとしてずっと付いて行ってたんだけど
その時に後ろからMETEORくんをずっと見れたのもでかかったね。
とにかくやることが予定通りに行かないのでなにが起こるかわからないっていう(笑)
色々な面でMETEORくんは師匠だと思ってるね。
T : なるほど。その後、CHIN-HURTZの関連作品はFUNKARATT CORPではなく
KLOVAL RECORDSからリリースすることになるけどそこまでの経緯を教えてもらえるかな。
C : METEORくんのアルバム”DIAMOND”に続いて、本当は自分のアルバムを出す予定で、
その作品がほぼ録り終わったってぐらいの時に自分がプライベートで色々あり、
スタジオに行っても作業できなかったりメンタルが相当やられてしまっていて。
今考えると周りにも迷惑をかけていたから自業自得なんだけど、
突然SUGAR CRACKとの連絡が途絶えちゃったんだよね。
PIRAROCKも実家に帰ってしまっていたので完全に1人きりって言う状態で
FUNKARATTは機能しなくなり、さらに病んで1,2年曲がかけない状況になった。
ライブは一応続けていたけどその時は結構ひどかったと思うね。
そんな時にたまたまPUNPEEから別件で電話があって、自分の状況を色々話したんだ。
周りから色々聞いて知ってたみたいなんだけど、「なんか一緒に曲やりましょう」って言ってくれてすぐにトラックを送ってくれた。
それがすごい嬉しくて。
そこでやっと書く気力も戻ってきて完成したのが”海賊の歌”。
ただせっかくPUNPEEと作れることになったけど、リリースの仕方がわからなくて。
FUNKARATTの時はSUGAR CRACKが裏方的な作業を全部引き受けてくれてたから。
そこで身近にいたSMOKIN’ IN THE BOYS ROOMのACEにこちらから相談したんだ。
SMOKIN’は制作から流通までKLOVAL RECORDSというレーベルで全て自分達でやっていたし、
仲も良かったので話は進めやすかったね。
ACEがKLOVALのみんなに話を通してくれて、みんなも快く快諾してくれたのもありKLOVALへ加入、
”海賊の歌(12”)”のリリースまで至ったという感じ。
アルバム”RESTART”の曲もその頃から作りはじめてYasterizeの協力もあり、
どんどん進んでいって、そこからCHIN-HURTZの第2章がスタートしました(笑)。
2へ続く。